競馬 想い出の歴史

競馬といえば、武豊

モーリス メジロの血、けれども……

 父スクリーンヒーローメジロフランシス

あのメジロ牧場の血を受け継いだ、数少ない一頭。メジロアサマメジロティターンをはじめ、牝馬三冠馬メジロラモーヌメジロマックイーンメジロライアンなど数々の名馬たちを輩出し、メジロアサマメジロティターンメジロマックイーンの親子3代天皇賞制覇という偉業を成し遂げた、日本競馬の発展に最も貢献したオーナーブリーダーの今は亡きメジロ牧場。おそらく、今後もメジロ牧場無しに日本競馬を語ることはできないだろう。マックやライアン、ブライト、そして、パーマー。メジロの馬は、日本競馬の中でいつも異彩を放っていた。昨今見られない個性的な馬ばかりだった。彼らには、とても一言では言い表せない魅力があった。現代競馬の失ってしまった古き良き風景が、ドラマが、そこにはあった。

  “ライアンが競馬のすべてを教えてくれた。”

そう横山典弘は言った。

 

 

 メジロライアン

 幼名、輝光。彼は、牧場の一番の期待馬だった。3歳(現2歳)の7月デビューも、2着、6着でソエで離脱。復帰後、彼には、まだ減量騎手だった横山典弘が乗ることになった。彼がライアンに乗れたのも、メジロ牧場が若手を積極的に起用し、育成したからである。これも、目の前の一戦一戦を勝つことに拘り、競馬界全体を考えない今の社台系にはない、古き良き競馬界の原風景である。

 閑話休題。横典になって2戦目には、初勝利。そして、ひいらぎ賞では10頭を豪快に差し切って勝利。4歳になると、ジュニアカップを勝ち、前年の朝日杯3歳Sを勝利したアイネスフウジンを差し切って勝利。

 クラシック一冠目皐月賞。前走アイネスフウジンが掛かり気味だったこともあり、皐月賞ではアイネスフウジンに1人気を譲り、2人気。しかし、スタートで2頭とも躓いた。それによって焦った。ライアンが完全に折り合いを欠いた。逃げるはずのアイネスフウジンは2番手につけた。アイネスフウジンに第4コーナーで先頭に立つと、逃げ切り図ろうとした。しかし、1頭飛んで来た。それはライアンではなく、ハクタイセイだった。その時、ライアンは馬群を捌ききれていなかった。結局、最後追い込んで来たものの、3着。

 ダービー。メジロ牧場は名門と呼ばれながらも、未だダービー馬は出ていなかった。

 “ダービー馬より天皇賞がほしい”

メジロの北野豊吉オーナーはよく言っていた。オーナーブリーダーであるため、長く活躍できる馬が良かった。けれども、ダービーをいらない、獲りたくないホースマンはいないだろう。ホースマンにとっての悲願。それは目の前まで来ていた。

  皐月賞ハクタイセイの陣営もダービーではライアンが最大の敵になる。と言っていた。そして、’75カブラヤオーから15年逃げ馬は出ていなかった。そんな訳でダービーでは、ライアンは1人気になった。

 ダービーは予想通りアイネスフウジン逃げで始まった。ライアンは珍しくスタートが決まったため、いつもより前目の中団にいた。アイネスフウジンの競りかけたところで、自分が潰れるだけである。そのため、競りかける馬などいなかった。しかし、中野栄治はペースを落とさず向こう正面では5馬身ほどのセーフティーリード。観客は当然の様に見ていたが、ジョッキーたちは違った。中野栄治の精密なラップ。そして、早々と仕掛ければ、ライアンに差される。誰も動くことはできなかった。 第3コーナーに差し掛かったところで、漸く、武豊ハクタイセイが仕掛けた。それを見てアイネスフウジンは加速。直線に入ってハクタイセイが先に力尽きた。ライアンは大外から来た。ライアンを差せる馬などいなかった。しかし、レースを完全に支配していたアイネスフウジンには1馬身届かなかった。1,2人気を横山典弘武豊に譲り、中野栄治はこう言ったという。

武豊がなんだ、横山がどうした。ヤツらが幼稚園の頃から馬に乗ってるんだ。”

 

  最後の一冠。菊花賞。1人気。結果から言うと、またしても勝てなかった。

メジロメジロでもマックイーンの方だ!”

と杉本アナは叫んだ。マックは夏の上がり馬だった。豊吉オーナー亡き後、ミヤ夫人が跡を継いでいた。ミヤ夫人はこの時、

“どうせなら春から頑張ってきたもう1頭に勝って欲しかった。”

と言ったという。

そして、次走の有馬記念。’90有馬記念。このレースは武豊の伝説の序章、オグリキャップの奇跡の復活として、語られる。この日も、ライアンは追い込んで来た。しかし、3/4馬身届かなかった。名解説者大川慶次郎は、このレースで

“ライアン!ライアン!”

そう絶叫した。結局、3歳から注目を集め、クラシックでも人気の一角であった彼は、4歳でGⅠを制すことはなかった。

 

中山記念で2着。武豊メジロマックイーンの親子3代制覇は、ノリとライアン陣営にとっては、ただ、ライアンが負けたということだけであった。この時は、マックに詰め寄ることなく4着。勝たないけれど、いつも追い込んで来る馬。いつしか、ファンから、

“ライアンが勝てないのはジョッキーの所為だ横山を降ろせ。”

という声が上がった。奥平調教師は横山を降ろさなかった。横典を擁護し続けた。オーナーのミヤ夫人はインタビューで

“他のジョッキーと横山が違うことは、負けた時、すべて自分の所為だって言う。”

そう語っていた。

 けれども、さすがに、宝塚記念で負ける訳にはいかなかった。しかし、マックもここにはいた。マックに勝つ以外勝つ術はなかった。この年は阪神競馬場改装のため、京都競馬場で行われた。マックはライアンより少し後ろの位置につけた。ライアンはその日、調子が良かった。それを感じた横典は決断した。今日は馬の好きにさせる。と。ノリとライアンは、あろうことか、あの、淀の上り坂で仕掛けた。誰もが思った。ノリは早すぎる。と。だが、それは早すぎではなかった。後続を引きつけ、それから加速した。マックにも勝った。

 

“僕の馬が一番強い”

という横典の想いは、漸く、形になった。しかし、彼らが再びGⅠの舞台で戴冠することはなかった。結局、GⅠ1勝で彼はターフを去ることになった。

 しかし、GⅠ1勝馬で生涯終えてしまったものの、人々の思い出に強く残るものであった。そして、何より、トップジョッキー横山典弘の礎を作り上げた。横山典弘に“競馬とは何か”を教えた。横山典弘というトップジョッキーをメジロ牧場と奥平調教師が育てた。それは、日本競馬界にとって何者にも代え難い大きな、大きな遺産となった。そこには、寛大なオーナーと騎手を守る調教師という二つの要因があったことを忘れてはならない。日本競馬界で、昨今、若手が育たない。と言われる。外国人ジョッキーの方が若手より上手いかもしれない。信用し、信頼し、場数を踏ませなければ人は育たない。若手は勝手には育たない。若手なのだから当然、失敗はする。けれども、それでも若手を使い続けるということをしない限り、日本の競馬というものはなくなる。GⅠになると、外国からジョッキーを呼んで来ていては、とても若手が育つ環境とは言えない。エージェント制には、限界がある。主戦を簡単に変えないこと、そして、オーナーや調教師はジョッキーを信頼するというこの失われてしまった古き良き日本の競馬サークルの寛大な心が、ノリとライアンの様な語り継がれるドラマを、生んできた。社台系が目の前の勝利に拘れば拘るほど、日本競馬界の先は暗くなる。GⅠになると、外国人ジョッキーを連れて来ることは、グローバル化とはいはない。グローバル化とは、所属国の意味がなくなることであっても、その国のアイデンティティーがなくなることではない。グローバル化の波が競馬サークルにも押し寄せているなら、尚更、日本人ジョッキーが海外で活躍できるため、若手を育てなければならない。今こそ、エージェント制をやめ、調教師は調教をし、金曜日にはジョッキーは各厩舎を回り勝負服を取りに行き、土日が終わると勝負服を返しに行き、ジョッキーと調教師のコミュニケーションがあった古き良き競馬サークルの原風景に戻すべきではないだろうか。

 

今年、メジロの血が、ライアンの血ではないものの、再びGⅠに帰って来た。最強マイラーが距離の壁に挑む。メジロ牧場が拘って来た天皇賞に挑む。ジョッキーはライアン・ムーアメジロの血統にライアンが乗る。ムーアは凄い。けれども、主戦のいない、外国人ばかりが乗っているモーリスを私は応援できない。その上、モーリスは今回、着外の可能性も高い。一方、ライアンの相棒だった横典は、アンビシャスでの戴冠を目指す。横典が怖いのは、今回の様な時ではなかろうか。