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競馬 想い出の歴史

時代は移り変わる。けれども今も変わらぬことがある。それは武豊がトップを走り続けているということ。そして、彼は日々進歩しているということ。

何年経っても、やっぱりオグリ

やっぱり、何年経っても有馬といえば、オグリ。引退レース。もう終わった。皆口を揃えてそう言った。引退だから。そう言って記念に単勝100円だけ勝った人もいただろう。もう負けるオグリの姿を見たくないと厩舎に脅迫状まで届いた。それだけオグリは秋成績が出ていなかった。天皇賞6着にJC11着。もう終わった。そう多くの人が思った。まさか勝つとは誰も思わなかった。平成3強とい呼ばれていた3頭の内、イナリワンスーパークリークは先に引退していた。その平成3強全てに騎乗し、GⅠを獲り、スーパークリークでオグリを負かし、安田記念でオグリを勝利に導いた若き日の天才武豊に騎乗依頼が来た。このとき、ユタカは4年目の弱冠21歳。この騎乗依頼が来たときユタカは、オグリが勝てば、今まで乗っていたクリークの年度代表馬はなくなるため、それまで乗っていたスーパークリークの陣営にスオグリのラストランに乗ってもいいかを聞き、陣営はオグリで勝って、オグリに勝った自分たちも一流であったことを証明してほしい。と言ったという。

 そして、ユタカはオグリにのラストランに乗ることになった。ユタカは瀬戸口調教師に実践の感覚に近づけるために芝での調教を提案し、有馬まで芝で調教した。オグリは次第に闘志が戻って来た。が、ユタカ自身も安田記念がオグリについて安田記念が一番良かったと語っていた。

 迎えた当日。あの狭い中山競馬場に17万7779人もの人が集まった。これは最も観客を集めたレースとしてギネス記録として今も塗り替えられていない。オグリは4番人気だった。パドックでユタカはオグリにこう言い聞かせた。

 

“お前、自分を誰だと思ってんねん。お前、オグリキャップやぞ。”

 

35回有馬記念は逃げるはずのミスターシクレノンが出遅れ、オサイチジョージが逃げ、1000m63.5の超スローだった。2番手にヤエノムテキ、4番手にホワイトストーン、ライアンは後方。オグリキャップは6番手だった。1周目のホームストレッチを迎えると、スローペースに耐え兼ねた馬たちが皆前行こうとし、折り合いを欠く馬続出。だが、オグリは違った。向こう正面ではスローペースに耐え兼ねたミスターシクレノンが行った。オグリは未だ5,6番手。第3コーナーに掛かるところで武豊が行った。第4コーナーで先頭に迫った。直線では、内で粘るオサイチジョージ、そして、その内からホワイトストーン。先頭はオグリ。ライアンが来た。

 “ライアン来た!ライアン来た!しかし、オグリだ!オグリ1着!オグリ1着!”

 オグリキャップ1着。自然発生したオグリコール。誰も勝って欲しかった。けれども、まさか勝つとは誰も思わなかった。競馬場全体がオグリコールで揺れていた。感動のラストラン。奇跡の復活として今尚、語り継がれている。鞍上の武豊も勝つとは思っていなかったという。が、第4コーナーを回ったところでで、勝つかもしれないとはじめて思ったという。

 武豊が全国区になったのもこのときだった。オグリキャップ武豊。彼らは今までギャンブルだった競馬を女性も楽しむスポーツにした。ゲームセンターのUFOキャッチャーには必ずオグリがいた。それほど人気だった。そして、何よりあの狭い中山競馬場に18万人近く集まり、皆がオグリの勝利に歓喜に沸いた。競馬の神様、大川慶次郎がオグリの闘志が消えたと思ったことを謝った。オグリは最後までオグリだった。

 レース後、色々な評論家たちがオグリの勝因について様々なことを語った。レースがスローで切れ味勝負になったこと。また、スローに慣れていない4歳馬が多かったこと。例年より出走馬の層が薄かったことなど。しかし、それらは正確ではない様に私には思えた。オグリのラストランの勝因をユタカが語っていたあるひとつの言葉で総て腑に落ちた。それのみが、真理に思えた。

 

 “オグリキャップだったから。”

 

 今年、ライバルだったイナリワンが逝き、オグリは7回忌を迎えた。もう平成も28年になった。あれから26年。およそ四半世紀の月日が流れた。しかしながら、未だにこの時期になるとオグリキャップ有馬記念が語られるのは彼がそれだけ偉大だったからだろう。そして、彼の直向きな姿は、オグリキャップという馬は、ファンの中で、日本競馬史の中で、いつまでも燦然と輝き続ける。オグリは人々の心の中にいつまでも生き続ける。